天皇陛下のご即位を祝う「祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)」が執り行われた11月10日、皇后雅子さまのこれまでを初めてドラマ化した日曜THEリアル!『陛下と雅子さま 知られざる笑顔の物語』(フジテレビ系)が放送されました。
番組では冒頭から今上陛下の微笑ましいエピソードが紹介され、パネラー陣も陛下のお人柄にニコニコ顔。
「令和」を祝福する歓迎ムードで番組が進みましたが、番組内では初めて、雅子さまのこれまでの物語を、昨年「ミムラ」から改名した美村里江が雅子さまを取材する雑誌記者に扮するドラマとして構成。
世界が称賛する「ソフトパワー」皇后雅子さまの知られざるエピソードや、様々な苦難を歩んでこられたプリンセスとしての雅子さまの、これまでを紹介します。
目次
- 1 プリンセスから皇后へドラマ『雅子さま物語』
- 1.1 平成のプリンセス
- 1.2 雅子さまを見続けてきた女性記者
- 1.3 雅子さまの想い
- 1.4 ベテラン皇室カメラマン
- 1.5 新しい皇太子妃
- 1.6 ご懐妊への期待が高まる中で
- 1.7 雅子さまの外国ご訪問は途絶える
- 1.8 梓の雅子さまへの想い
- 1.9 金の鳥かごの中のプリンセス
- 1.10 ご懐妊の報も流産
- 1.11 殿下の想い
- 1.12 愛子さまご誕生、その矢先に
- 1.13 お世継ぎを
- 1.14 人格否定は誰だ
- 1.15 雅子さま「適応障害」
- 1.16 得難い友情
- 1.17 愛子さまの母として
- 1.18 通じた想い
- 1.19 オランダからの招待
- 1.20 愛子さまのご成長
- 1.21 「平成から令和」に天皇陛下ご退位
- 1.22 「命懸けで守る」約束
- 2 新しい時代の幕開け、皇后様の今までを振り返り
- 3 関連記事一覧
プリンセスから皇后へドラマ『雅子さま物語』
平成のプリンセス
時は1993(平成5)年冬。当時、外務省に勤務されていた小和田雅子さまは、皇太子浩宮殿下とご婚約されます。
「雅子さんのことを僕が一生全力でお守りします」
という殿下のお言葉を頼りに踏み込んだ皇室という世界。
令和を迎え皇后となられる雅子さまはご成婚で歓迎、祝福されたものの、一方で皇室での日々は、まさに皇太子殿下、今上の陛下と共に試練を乗り越える、重圧に耐える苦難の日々でした。
雅子さまを見続けてきた女性記者
1993(平成5)年1月。皇太子殿下と小和田雅子さまの婚約内定記者会見が行われました。この時、雅子さまは当時29歳。
未来の皇后として歩み始めた瞬間でした。そして6月、お二人のご成婚。
プリンセスの誕生に国中が沸き返える中「週刊チェイス」の女性記者栗島梓(美村里江)はお二人のご成婚パレードを沿道で見ていました。
彼女は以来、雅子さまが皇后となられるまで26年、ずっと雅子さまを見続けてきたのです。
梓は、雑誌のデスク八神真治(神保悟志)に雅子さまの取材を申しつけられますが、いつも皇室班の桜庭賢人に先を越されてしまいます。
皇太子妃となられた雅子さまは国民の関心の的で、マスコミも雅子さまにまつわるビッグニュースを求めていました。
「週刊チェイス」も新聞などですでに取り上げられている記事ではなく、読者が飛びつく記事を求めています。八島から梓に檄が飛びます。
雅子さまの想い
ご成婚の日の夜、東宮仮御所で雅子さまは
「今でも沿道から声をかけてくださった人たちの祝福の言葉が胸に響いています。最良の日でした」
とふり返られたそうです。
平成のプリンセスには笑顔が満ち溢れてました。
ベテラン皇室カメラマン
梓はネタが無いかと一生懸命宮内庁職員に声をかけますが、空振りばかりです。
そんな梓に美智子さまのご成婚も写真に納めたというフリーのベテラン皇室カメラマン杉崎省吾(デビット伊東)が声をかけます。
苦労して記事を書いた梓ですが、デスクは却下。桜庭の記事が採用されてしまいます。
新しい皇太子妃
ご成婚後、国民の雅子さまへの関心はますます高まります。
雅子さまは皇太子殿下とともに宮中晩さん会など新しい皇太子妃として公務をこなされました。
ご懐妊への期待が高まる中で
ご公務をこなされる雅子さまにはお世継ぎの誕生の期待が高まります。
そんな中、1994(平成6)年1月、宮内庁から雅子さまお風邪のためにご夫婦の記者会見が取りやめになると、突然の発表があります。
これが『雅子さまご懐妊か』という噂に発展してしまいます。
このマスコミの騒ぎに、皇太子殿下はを戸惑いのお気持ちを表明されます。
メディアでは、ご懐妊ならば雅子さまはハイヒールを控えるだろうと噂されていましたが、葉山でご静養の時、雅子さまはハイヒールを召されてました。
雅子さまの外国ご訪問は途絶える
そんな中、雅子さまは、中東ご訪問などのご公務をこなされます。
しかし1995(平成7)年1月以降6年、雅子さまの外国ご訪問は途絶えます。雅子さまのご公務より、ご懐妊の方が優先されたのです。
マスコミの関心も雅子さまのご懐妊はいつかという事でした。
梓の雅子さまへの想い
「週刊チェイス」でも雅子さまのご懐妊のニュースへの期待が高まっています。
梓はそんな風潮に疑問を持ちますが、夫陽平も自分たちの子どもを望んでいました。
梓は「もう少しだけ待って」とせがみます。「自分にしか書けない記事を書いてから」陽平はそんな梓を理解し「頑張れ」と励まします。
金の鳥かごの中のプリンセス
ご結婚から3年、雅子さまのご懐妊への期待が高まる中で、皇太子殿下が「コウノトリはどうも静かな環境を好むようでして」とご発言されます。
ご懐妊されることが優先され、海外へのご公務も許されない雅子さまを、海外メディアは「金の鳥かごの中のプリンセス」と伝えました。
のちに雅子さまはこの当時をふり返り「私自身その状況に適応することに、なかなか大きな努力が要ったということがございます」と述べられています。
ご懐妊の報も流産
1999(平成11)年12月、とある新聞が宮内庁の正式発表前に「雅子さまご懐妊の兆候」と報じ、国中が大騒ぎになります。
12月13日午後4時35分、東宮御所から、雅子さまを乗せた車がカーテンも閉められた物々しい雰囲気で、宮内庁病院に向かいます。
スクープ報道から二十日後、雅子さまが流産されたと発表されました。
殿下の想い
2000(平成12)年2月、皇太子さまは40歳の誕生日会見で
「非常に不確かな段階で報道がなされ個人のプライバシーの領域であるはずのこと、あるいは事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であります」
と苦しい胸の内を明かされています。
流産から1年後、雅子さまも「戸惑い」を明かされ、辛い胸の内を明かされます。
愛子さまご誕生、その矢先に
雅子さまが戸惑いを述べられたあとも、報道でのご懐妊への関心は薄れる事はありませんでした。
そして2001(平成13)年4月16日、宮内庁の正式発表で雅子さまご懐妊の兆候が伝えられます。
2001(平成13)年12月1日、雅子さまご出産が報じられました。内親王愛子さまの誕生でした。
新しいご家族が生まれた御一家。しかし喜びの時は長く続きませんでした。
お世継ぎを
愛子さまの誕生。しかし雅子さまに課せられたのはお世継ぎ誕生の要求でした。
2003(平成15)年6月、宮内庁長官(当時)は定例会見で
「やはりもう一人欲しい。多くの国民もそう考えているのではないでしょうか」
と発言。物議を醸しました。
雅子さまは体調を崩され、帯状疱疹でご入院されます。そして、しばらく雅子さまのお姿を見る事はできなくなります。
外国ご訪問を前にした会見で皇太子さまは
「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定する動きがあった」
とご発言。大きな波紋を呼びます。
人格否定は誰だ
「週刊チェイス」でも皇太子さまのご発言を受けて動き始めました。梓も取材に飛びます。雅子さまの人格を否定する動きとは誰なのでしょう。
梓は陽平と「皇太子さまは捨て身で雅子さまを守ろうとしてるのだと思う、プロポーズの言葉通りに」と話します。
雅子さま「適応障害」
2004(平成16)年4月、宮内庁は雅子さまのご病状を適応障害と発表します。
ご静養で姿が見られなくなった、雅子さまの久しぶりのご公務は愛知万博の視察でした。しかし、梓はこの取材でも雅子さまに笑顔は見られなかったと綴ります。
取材を始めてから初めて見る元気のないお顔でした。
得難い友情
そんな雅子さまがオランダでご静養されることが決まります。
招いたのはベアトリクス女王。皇太子ご夫妻は愛子さまを連れてご静養なさいました。
このご静養で雅子さまはマキシマ皇太子妃と得難い友情を育まれ、お二人の絆が雅子さまのご病状の回復の糸口になります。
愛子さまの母として
帰国後、愛子さまは通学に不安を抱え、お一人で学校に登校できなくなります。
雅子さまは母親として、毎日愛子さまと一緒に学校まで登校するようになります。
梓は「過保護すぎると思う」という陽平に「私もするかもしれない」と答えます。「もし自分の子が壁にぶつかっていたら、私も一緒にぶつかりたい」と。
通じた想い
雅子さまの登校の同伴は1年半続きましたが、ある日、愛子さまはついにお一人で登校されます。
バッシングされた中で続けた、雅子さまの思いが通じた瞬間でした。
オランダからの招待
2013年、ご夫妻にオランダから国王即位式の招待状が届きます。お二人は出席できるか時間をかけてご相談されました。
なかなか結論が出ない中であのマキシマ皇太子妃から電話がきます。「何も心配なさらずにオランダに来て下さい」
そして雅子さまは11年ぶりの海外ご公務を果たされます。
愛子さまのご成長
無事、海外ご公務を果たされたあとに、雅子さまは愛子さまの運動会にご出席されます。
成長した愛子さまを見守る雅子さまの目には光るものがありました。
「平成から令和」に天皇陛下ご退位
2016(平成28)年8月。天皇陛下がご退位される意向を示し、上皇に即位されることが決まります。
そして今年令和元年、皇太子殿下は今上の陛下としてご即位。
雅子さまも痛みも苦しみも知る皇后さまとして陛下の支えとしてご活躍されています。
「命懸けで守る」約束
梓は、雅子さまと共に歩んだ女性です。
今は1人の子どもを持つ2人。2人が結婚するきっかけになった陽平のプロポーズの言葉が思い出されます。
天皇陛下と同じ、「命懸けで守る」という言葉。2人は「これからもよろしくね」と笑顔で約束しました。
新しい時代の幕開け、皇后様の今までを振り返り
昭和から平成を経て『令和』になった今年。それぞれの人が様々な思いで時代を迎えられているでしょう。
お世継ぎへの期待がのしかかり、重圧に苦しまれた皇后陛下は体調を崩されてしまい、長く療養の日々を送ります。
東大、ハーバード大学、外務省職員を経て皇太子妃となり、いま皇后の座につかれた雅子さま。
その辛かった日々が、週刊誌記者から見たドラマとして分かりやすく構成されていました。
新しい時代を迎えた日本の、新しい歴史の1ページ
番組を通じて皇后様のいままでを振り返り、あらためて新時代の喜びと責任を痛感しました。それぞれの人が様々な思いで時代を迎えられているでしょう。
お世継ぎへの期待がのしかかり、重圧に苦しまれた皇后陛下は体調を崩されてしまい、長く療養の日々を送ります。
東大、ハーバード大学、外務省職員を経て皇太子妃となり、いま皇后の座につかれた雅子さま。
その辛かった日々が、週刊誌記者から見たドラマとして分かりやすく構成されていました。
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