運慶快慶の金剛力士像に込められた秘密とは?作品から見る二人の関係をNHKスペシャルが特別取材

アメリカ、ニューヨーク。運慶作の大日如来が、オークションで13億円の値がついたことが、ニュースで大きく話題となりました。

仏像として過去最高額となったこちらの作品。鎌倉時代の天才仏師、「運慶」と「快慶」が作った日本の仏像です。二人が手掛けた仏像は大変貴重で、その多くは国宝に指定されています。

そんな「運慶」と「快慶」によって作られた貴重な新たな仏像の名品が、800年ぶりに発見されます。NHKはこの仏像の独自調査を1年半続け、ついにその調査結果が番組として放送されました。その番組内容を、まとめてご紹介していきますので、ご覧ください。


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運慶と快慶の仏像に秘められた謎とは?

東大寺南大門の仁王像は、「運慶」と「快慶」の作品ですが、二人の生涯は謎に包まれています。

そのミステリーに、調査チームは最先端のテクノロジーを使って、挑戦しました。貴族の世から武士の時代への激動の時代、新資料からわかったのは、盟友だった「運慶」と「快慶」の決別のドラマ。

「運慶」の興福寺中金堂、四天王像、「快慶」の京都の寺にある阿弥陀如来像は、まったく違う像です。二人に何があったのでしょう。本格的なドラマを交えて、「運慶」と「快慶」の実情に迫ります。

快慶仏の特徴

多摩美術大の青木教授の調査です。快慶の「阿弥陀如来像(重要文化財)」は、体にまとわりつくような衣のひだ、優しい顔つきが快慶の作品に似ています。

「阿弥陀如来像」をX線で写したところ、仏像の中に古文書がありました。仏像の中に古文書が入っているのは、快慶の特徴です。

そして、足の下には文字が書いてあり、これも快慶の特徴と一致しました。800年の時を経て快慶作の「阿弥陀如来像」と判明。64体目の作品の発見です。

運慶仏の特徴

恵泉女子大の山本教授による、興福寺の四天王像の調査です。運慶仏は右足を軸に、左足を出しているのが特徴です。

四天王像もその形をしています。そして、桂の木を使用するのも特徴。四天王像の木を調べたら、桂の木を使用していました。そのことから、四天王像は運慶作と判明しました。

運慶、快慶のその生涯とはいったい?

運慶は、奈良市興福寺を拠点に活動をしていた、仏師康慶の子供だと言われていますが、詳しい生い立ちはわかっていません。治承4年(1180年)に、平家の兵火によって奈良・東大寺、興福寺が焼失。

その後、興福寺の再興造像を任せれました。運慶は文治2年(1186年)正月の時点では、興福寺西金堂本尊釈迦如来像の造像に携わっていましたが、鎌倉幕府の仕事を開始します。

建長7年(1196年)、快慶らと共に、東大寺金剛力士像を造像。最晩年の運慶の仕事は、鎌倉幕府関連の仕事に限られています。そして1223年に没し、長男湛慶に後継をたくしました。

快慶は、生没年は不詳です。資料上では、寿永2年(1183年)の「運慶願経」です。「運慶願経」は運慶が願主となった法華経で、この八巻目に快慶の名前がみえます。

その後運慶と共に東大寺、興福寺の再建に携わりました。快慶の没年はあきらかではありませんが、京都府極楽寺の阿弥陀如来葬の体内から、発見された文書から家禄3年(1227年)の年紀とともに、「過去法眼快慶」とあることから、この時点で快慶が故人とわかります。

運慶、快慶作の仏像から発見された爪や歯の意味とは?

運慶作の愛知県のお寺で、見つかった重要文化財の「帝釈天像」の足元に、マッチ箱の大きさほどの影が見つかり、調べてみると爪と歯が見つかりました。

これは源頼朝のものとされています。運慶は戦のない世の中を願って、鎌倉武士と接近したことがわかります。

快慶作の阿弥陀如来像の体内から見つかったその古文書には、表には阿弥陀如来像がかかれ、裏にはこの仏像と縁を結んだ人の名前が書かれていました。

多くは庶民の名前で、5万人の名前が書かれていました。これは快慶が庶民と関係を結んだ証です。

東大寺金剛力士像を作った後、距離を置くこととなった二人の天才

8m、7トンの2体の東大寺金剛力士像は運慶、快慶の作です。2体の像は小さいパーツからできていて、合計6102個のパーツでできています。

建仁3年(1203年)7月に着工し、2週間で立像、そこから修正をえて着工からなんと69日で完成しました。修正では運慶は細かいところまで、かなり修正を加えました。

金剛力士像完成後

金剛力士像の完成後は、運慶と快慶はたもとをわかちました。運慶は鎌倉周辺と奈良で仕事をし、快慶は地方の小さいお寺で、快慶作の仏像が見つかっています。

それはなぜなのでしょうか。その理由は、運慶は戦のない世の中を願って鎌倉武士と関係し、快慶は庶民によりそった信仰をのぞんだ為です。

運慶は晩年には、高価な顔料を使って仏像の全身が、強烈な色彩をはなち圧倒的な表現力の新境地にいたりました。

快慶は仏像に薄い線の光を書き、庶民に信仰をときました。晩年の二人は静と動の表現力になりました。


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運慶・快慶 新発見!幻の傑作

運慶・快慶は、最初は一緒に仕事をしていましたが、のちに袂をわかちました。

運慶と快慶はそれ以降、仲たがいしてしまったのでしょうか。運慶は1223年に亡くなりますが、快慶に息子の湛慶をたくします。

湛慶は京都三十三間堂の千手観音像や、国宝の風神・雷神像を作りました。千手観音像は優美でやさしく、風神・雷神はたくましい作風です。

これは父、運慶の力強さ、快慶の優美さを受け継いだ作風です。この湛慶作の仏像を見ても、運慶と快慶が仲たがいしていたわけではなく、運慶は快慶に、快慶は運慶を認めていたことがわかります。

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