渋沢栄一は何した人?澁澤龍彦の親戚?新一万円札の顔、近代日本資本主義の父とは?

2024年から、40年ぶりに新1万円札の顔として、渋沢栄一が印刷されることが、本日政府より発表されました。

聖徳太子、福沢諭吉に続いて、3代目となるこの方ですが、一体何者なのでしょうか。

明治から昭和にかけて、日本の産業界をリードし、「近代日本資本主義の父」とまで呼ばれる人物について、そのあまりにも多すぎる偉業を、ご紹介していきます。

渋沢栄一の出身地は?生い立ちについて

  • 誕生日:天保11年(1840年)2月13日
  • 幼名:渋沢栄二郎、栄一郎、篤太夫、篤太郎
  • 出身地:武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)
  • 父:渋沢市郎右衛門元助(1810年 – 1871年)
  • 母:エイ

江戸時代に生まれ、大農家で商人としての才覚を、磨きながらも、ある時は武士として、尊王攘夷運動に加わり幕府転覆を図ります。

しかし、またある時は徳川家に匿われ、徳川慶喜のために奔走することとなり、さらには将軍の名代としてヨーロッパに渡り、外交まで果たした、そんな彼の若かりし頃の生い立ちを、ご紹介していきます。

14歳にして武州自慢鑑藍玉力競で日本の織物産業に革命を起こす

渋沢は、蚕や米などを、生産する大農家の長男として、生まれます。

実家は、藍玉の製造と販売と養蚕を行う会社を、経営しており、実家で生産した蚕を、藍の染料を仕入れて、染め上げた蚕を売るという商売をしていました。

原料の仕入れと販売の仕事を、幼い頃より手伝っていたため、算盤で計算する能力に長けており、若くして経理・経営的な才能を磨かれます。

父と一緒に、信州や上州まで藍の販売と藍葉の仕入れを、行っていた行商を、14歳の時からは、一人でするようになります。

この頃から、すでに学校などに通わずして、実践の現場で近代的な合理主義の考え方を、身につけていくのでした。

そんなある時、藍の染料となる藍葉の質を、もっと良くするためには、どうすればいいかと考えた渋沢は「武州自慢鑑藍玉力競」という制度を、思いつき実行に移します。

これは今風に言えば、染料のランク付け制度であり、良い品質の染料には、高いランクを付けて高値で買い取るという制度を、実家や取引先を説得することで実施。彼はこの時まだ14歳でした。

このことにより、各染料農家は競い合うように、染料の質の改善に取り組み、結果として取引先全ての染料の質を、上げることに成功します。

高崎城を攻め落とし幕府転覆を図る

それから3年後、渋沢は幕藩体制に疑問を抱き始めます。

当時17歳だった彼は、尊王攘夷運動に参加。高崎城乗っ取り、そのまま長州藩とともに、幕府転覆を行う軍隊へ参加することを、仲間とともに計画しました。

けれど、この計画は途中で、頓挫してしまいます。それどころか、計画が幕府関係者に、漏れてしまい渋沢は、一転して幕府からその身を、追われる立場となってしまいます。

そんな渋沢の才能に気がつき、彼を匿おうとする人物が、この時現れるのでした。

それが、一橋家当主の一橋慶喜。この人物は、後に徳川慶喜となる徳川家の1人。つまり渋沢は、徳川家に追われながらも、徳川家に匿われるという複雑な状況になります。

パリ万博の視察のため渡航

主君の徳川慶喜が、将軍となると同時に、渋沢も幕臣となります。

その年に、パリで万国博覧会が行われるため、徳川家の随員として、フランスへ渡航することとなりました。

フランスへ渡航すると、パリ万博だけでなく、ヨーロッパ各国を訪問する中で、ヨーロッパの近代的な産業・軍備に、衝撃を受ける渋沢。

彼は帰国すると同時に、この近代化の重要性を将軍に説こう決心しますが、視察の途中で大政奉還が行われ、かつて倒幕を目論んだ幕府は、図らずもなくなってしまうのでした。

渋沢栄一とは?何した人?

渋沢が、ヨーロッパから帰国したのが、28歳の時。マルセイユから、2ヶ月ほどかけて、横浜港に帰国。

帰国後は、幕府はすでになくなり、謹慎中の身となった徳川慶喜と面会するように、静岡藩から出仕を命じられますが、元将軍から「これからはお前の道を行きなさい」と言われます。

ヨーロッパで、学んだことを日本で活かすことを、決心していた渋沢。自分の道を行くことに、躊躇はありませんでした。

そして、ここから怒涛の渋沢栄一の伝説が、築かれていくこととなります。

株式会社制度を広め日本初の民間の銀行を設立

フランスで学んだ株式会社制度に、いち早く取り組む渋沢。そんな時、大隈重信に強く説得され、彼のもとで働くこととなります。

一時、大蔵省の官僚として、国立銀行条例の制定に携わりますが、結局予算編成などで対立し、4年ほどで退官するのでした。

それから、すぐに第一国立銀行の頭取に就任。その後、七十七国立銀行や地方銀行の設立を、指導します。

30代で近代日本資本主義の父となる

日本初の民間銀行設立と並行して、渋沢は数多くの会社を設立していきます。

日本を近代化するために、資源エネルギーの会社「東京ガス」の設立。これからは誰でも、情報を手軽に入手できる社会になると考え、書籍や新聞紙などを作る製紙会社「王子製紙」も設立。

さらに、日本のセメント会社最大手「太平洋セメント」、鉄道大手3社「東急電鉄、秩父鉄道、京阪鉄道」、日本を代表する高級ホテル「帝国ホテル」。

まだまだ留まることを知らず、日本最大の金融商品取引所「東京証券取引所」、近代化初期には繊維産業で栄えた日本を、支えることとなる繊維や織物を扱う紡績の最大手「東洋紡績」、他にも「キリンビール」と「サッポロビール」、「明治製菓」、「理化学研究所」。

一人の人間が、一度の人生で達成したとは思えないほどの、業績を残した渋沢。設立に関わった企業は、500以上にも上り、まさに明治の起業家として、トップに君臨します。

そんな彼のもとには、彼を慕う経営者や管理職が集まる「龍門社」という組織が、作り上げられその会員数は、昭和初期には数千名にまで達します。

社会活動でも大きく貢献を果たす

東京慈恵会や日本赤十字社の設立や、聖路加国際病院の初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長なども務めます。

設立に関わった大学も、一橋大学、東京経済大学、二松學舍大学、国士舘大学、同志社大学、日本女子大学と多岐にわたりました。

関東大震災が起きた際は、自分が持つあらゆるコネと私財を投じて、政府よりも早く炊き出しや避難所、臨時病院や、孤児院などを設立。多くの被災者の救済に、積極的に動きます。

さらには、日本国際児童親善会を設立して、アメリカの人形と日本の人形を交換することで、交流を深める活動や、中国で起こった水害のために、義援金を集めて支援するなどの活動もしました。

こういった活動が評価された結果、2度ノーベル平和賞の候補にもなります。

澁澤龍彦との関係は?

本名:澁澤龍雄(たつお)

誕生日:1928年(昭和3年)5月8日

没日:1987年(昭和62年)8月5日

学歴:東京大学文学部フランス文学科卒業

澁澤龍彦はm日本の小説家であり、フランス文学者としても知られた作家でした。

ペンネームとして、澁川龍兒、蘭京太郎、Tasso S.などがあります。

亡くなった今でも、名前が全て旧字体の漢字のままの作家は非常に珍しく、これは本人が生前に「竜」の字を、非常に嫌っていたことが理由です。

■澁澤龍彦本人の言葉

私は署名をするときにも、竜彦などとは間違っても書かない。(略)これはタツではなくて、尻尾の生えたカメみたいではないか

渋沢栄一の親戚ですが、澁澤龍彦が澁澤家の本家で、栄一が支流になります。

澁澤龍彦がまだ幼い頃には、渋沢栄一と一緒に滝野川に住んでいました。澁澤龍彦は、まだ赤ん坊の時に、抱っこをしてもらいながら、お洩らしをしていたそうです。

代表作としては、「高丘親王航海記」、「快楽主義の哲学」、「胡桃の中の世界」などがありますが、渋沢栄一は彼の作品が世に出る前に亡くなってしまいます。

渋沢栄一の名言とは?会社一覧もご紹介

私利私欲を追わないことを、美徳とした渋沢栄一。

ここまでの大成功を、収めておきながら、さらに彼が評価された点は、私利私欲を追わず自身の財閥などは作らなかった点です。

三菱や三井、住友などに代表されるような人たちは、自身の財閥をつくり、その中に金が貯まるような仕組みを作っていきます。

それに対して彼は、経営権を次々と、他の人達に渡していったため、彼が実際に所有している企業は、ほとんどありませんでした。

そういった点も非常に政府から、高く評価され子爵という爵位を、授けられることとなります。

そんな彼が、自ら執筆した書籍「論語と算盤」には、彼の経営哲学として、こんな言葉が記されていました。

富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。

事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。

そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。

渋沢栄一が、生涯かけて設立に、直接関わった企業の数は「648社」、また後進会社や関連団体などもその他諸々も含めると、「1,839社」にも達します。

 

渋沢栄一が設立に関わった企業

  • みずほ銀行
  • 澁澤倉庫
  • 王子ホールディングス
  • 王子製紙
  • IHI
  • いすゞ自動車
  • 太平洋セメント
  • 清水建設
  • 東洋紡
  • 川崎重工業
  • 第一三共
  • デンカ(旧電気化学工業)
  • 古河機械金属(旧足尾銅山)
  • 損保ジャパン日本興亜(旧日産火災・旧日本火災)
  • 朝日生命保険
  • キリンホールディングス – キリンビール – 協和発酵キリン

上記以外の企業についてはこちらから

性癖がヤバかった?栄ちゃんの女性関係とは?

英雄色を好むではありませんが、かなりの女好きとしても知られる渋沢栄一。

そのため、これまでも何度も1万円札の候補として、選出されながらも、結局選ばれずに来ました。

家は実質的な一夫多妻制を取っており、本妻以外にも、愛人が2人いたという話です。

何度も離婚と再婚を繰り返しており、妻以外との子供が10人ほどいたと言われています。

さらには、かなり変わった性癖を持っており、それがあまりにもヤバすぎて紙幣の肖像画に、これまで選ばれませんでした。

渋沢栄一の女癖の悪さと性癖について、Wikipediaにはこのような記載がありましたが、現在は既に削除されています。

仕事ぶりは真面目であるが、かなりの女好きであったと言われ、実際に妻以外に二人の女性(一人は愛人、もう一人は後に離婚・再婚し後妻になった。)との間に子供が七人(全員で10人)いたことが判明している。

また、当時としては珍しく多様な性癖があったとも伝えられており、この様なことから過去に何度も紙幣の肖像画への採用が検討されるも見送られてきたことがある。

礎を築いた偉大な近代日本資本主義の父

「経営の神様」と言われるピーター・ドラッカーの自著、「マネジメント」の序文で、このような言葉が書かれています。

率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。

彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていた。

渋沢は「論語と算盤」という自身の本で、まさにこの経営とは何なのかを、簡単に一言で表現しています。

論語とはつまり「社会的道徳・責任」であり、算盤とは「利益」。この2つが、両輪としてうまく回ることで、経営は成り立つということを、主張したのです。

この社会的道徳と利益というのは、「白熱教室」で有名なハーバードのマイケル・サンデル教授も、何度も授業で取り上げました。

公共の利益のため、日本のことを真に考え、本当の意味で日本を大きく発展させた近代日本資本主義の父であり、明治の起業家王ともいえる渋沢栄一。まさに彼は、1万円札の人物に相応しい人物と、言えるのではないでしょうか。

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