大原麗子の孤独死はなぜ?死因のギランバレー症候群とは?晩年の生活や結婚歴についても

女優の大原麗子さんが亡くなられてから、もうすぐ10年が経ちます。

難病であると言われるギランバレー症候群を患っていた大原麗子さんは、自宅で一人で亡くなり、死後数日経過したところを警察によって発見されました。

かつて日本を代表する名女優だった彼女の孤独死に、当時は衝撃が走りました。

大原麗子さんの死から10年を迎える今、改めて彼女が孤独死に至った経緯や、死因であるギランバレー症候群について調べてみました。

大原麗子はなぜ孤独死したのか?

大原麗子さんは、NHKドラマ「幸福試験」でデビュー。その後は橋田壽賀子さん脚本の大河ドラマ『春日局』など、数々のTVドラマに出演しました。

映画では、人気シリーズ「男はつらいよ」で2度もマドンナ役を務めています。

かつては華やかな世界で大勢の人々に囲まれ、押しも押されぬ人気女優だった大原麗子さんが、なぜ一人きりで亡くならなければならなかったのでしょうか?

芸能活動を休止するまでの経緯や、孤独死の原因についてまとめてみました。

病気が芸能活動休止のきっかけ

芸能界で活躍していた大原麗子さんを活動休止に追い込んだのは、「ギランバレー症候群」という難病がきっかけでした。

療養のために、「新・坊っちゃん」、「冬の陽」など出演中だったTVドラマを降板することとなりました。

半年後には女優復帰することができましたが、再発を恐れて仕事をセーブしていたようです。

その後も47歳の時には乳がんを発症し、手術をして1度は回復したものの、2年後に再発。再び手術を受けています。

病気の不安と戦いながらも女優の仕事を続けていた大原麗子さん。しかし、53歳の時に受けた左目の整形手術に失敗。

このために、当時予定されていた主演映画「天城越え」を降板することとなってしまいました。

更に、恐れていたギランバレー症候群の再発も重なり、芸能活動を再び休止に。

このころから自宅に引きこもるようになってしまったと言います。

マネージャーと同居していたことも

大原麗子さんは、晩年、かつてマネージャーを務めていた女性・佐藤嘉余子さんと同居していたことがあったそうです。

佐藤嘉余子さんは大原麗子さんが19歳のころから20年以上にわたってマネージャーを担当していましたが、佐藤さんの反対を押し切って舞台に出演しようとする大原麗子さんとの間に溝ができ、マネージャーを辞職。

以来、音信不通となっていた間柄だったそうですが、ギランバレー症候群を再発した頃に連絡があり、同居してほしいと頼まれたと佐藤さんご本人が後に明かしています。

生活習慣の違いがもとで、5カ月ほどで同居は解消となったそうですが、料理のできない佐藤さんにかわって大原麗子さんが食事を作ってくれたりしたこともあったそうです。

晩年の生活

ギランバレー症候群を再発してからも、女優復帰を目指してリハビリをしていたのだとか。

大原麗子さんが亡くなったのは2009年8月6日。

連絡が取れなくなったことを不審に思った実弟が警察に通報し、自宅で亡くなっている大原麗子さんを発見しました。

携帯電話に手を伸ばしている状態で亡くなっており、助けを呼ぼうとしていたのではないかと言われています。

もし、携帯電話に手が届いていれば、誰かに連絡がついていれば、助かった可能性はあったのかもしれません。

 

ギランバレー症候群とはどんな病気?

大原麗子さんの人生を大きく狂わせたギランバレー症候群。

難病といわれていますが、一体どのような病気で、どういったことが原因でなるものなのでしょうか?

そして、大原麗子さん以外にも、この病気を患った有名人がいました。

中には、3カ月で完治したという方も!その主な人物も紹介していきます。

ギランバレー症候群の症状

ギランバレー症候群とは、日本で特定疾患の難病指定を受けている病気です。

運動神経に障害ることにより筋肉を動かせず、四肢に力が入らなくなり、しびれや痛みが伴うこともあります。

さらには顔面神経麻痺や、自律神経障害などを併病することもあるのだそうです。

症状が重いと、呼吸不全を起こし死亡することもあります。

ギランバレー症候群にかかる原因

ギランバレー症候群にかかる原因は、なんらかの感染症であると言われています。

感染症にかかった3~4週間後に発症する方が多く、約60%ほどの割合なのだとか。

主な感染症の例では、カンピロバクターやマイコプラズマ、風疹やインフルエンザから発症することもあるようです。

ギランバレー症候群を患った有名人

ギランバレー症候群を患った有名人は、大原麗子さんのほかに俳優の安岡力也さん、政治家の川口順子さん、女優の芳根京子さん、モデルの美馬寛子さんなどがいらっしゃいます。

中でも、芳根京子さんが?と驚かれる方も多いかと思いますが、芸能人になる前の中学生2年生の時に発症し、1年ほどで自然治癒したそうです。

美馬寛子さんも、中学1年生の時に発症、早期発見だったこともあり3カ月で完治したそうです。

決して治らない病気ではないということですね。

大原麗子の結婚歴は?

大原麗子さんは生前、2度の結婚と離婚を経験しています。

どんな結婚生活だったのか、離婚理由、子どもの有無について等、調べてみました。

渡瀬恒彦との結婚

1度目は1973年に俳優の渡瀬恒彦さんとの結婚です。

ギランバレー症候群を最初に発症したときには、渡瀬さんが献身的に支えてくれたのだそうです。

大原麗子さんが半年で女優復帰できたのも、渡瀬さんの看病のおかげなのでしょう。

渡瀬恒彦さんとの間に子どもを身ごもりましたが、子宮外妊娠だったために流産。

その後、東映専属俳優として人気の出始め、活動拠点が京都となった渡瀬さんと、東京を拠点に活躍する大原麗子さんの間ですれ違いが生じ、5年後に離婚となってしまいました。

森進一との結婚

2度目の結婚は1980年、相手は歌手の森進一さんでした。

森進一さんとの間にも子どもを身ごもったのですが、仕事を優先させるために堕ろしたのだそうです。

森進一さんとは、このことがきっかけとなり4年後に離婚しています。

大原麗子さんの死から10年

大原麗子さんの死から10年という今、改めて大原麗子さんの経験を振り返ってみると、壮絶な人生を歩んできた方だったということがわかります。

過去にはドラマ化までされたこともありますね。

寂しい最期を迎えたように報道されていますが、大原麗子さんの素晴らしい演技が光る名作たちは今でも親しまれており、彼女が日本中から愛されていた女優だったことは間違いありません。

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